マインド

いらない人間なんていない。生きているだけで価値がある。

目安時間 10分

ゆうしんです。

 

僕がこのブログで伝えたいことの一つが、
「会社に依存しない生き方」です。

 

これは、会社員という「与えられた役割」を果たす以外にも
生きていく道があるんだ、というメッセージです。

 

僕は子供の頃から社会に馴染めず、
長く引きこもって過ごしていたわけですが、
それは逆から見ると、社会を「外」 から見るという
立場でもありました。

 

社会に参加せず、傍観者のような視点で、
友達や親や、世間の人々の動きを観察していたわけです。

 

十代の大半をそうして過ごし、色々なことを考えました。

その経験が今の人格や価値観を作った基礎になっていますし、
それはこのブログの主要なテーマとなっています。

 

その一つが、この記事のタイトルの
「いらない人間なんていない」につながります。

 

「与えられた役割を果たさないと、生きる価値がない」

という前提で世の中が動いてることが、
僕にはどうにも納得できませんでした。

 

「人間は生きてるだけで価値がある」

という感覚が、子供の頃から自然にあったからです。

 

「役割」を果たさなければ生きてる価値がないの?

日本人は「和」を重んじると言われます。

個人の主張を抑えてでも、集団の論理を優先すると。

 

外国に住んだことがないので分かりませんが、
どうやら日本はそういう面で特殊な国のようです。

 

子供の頃から、大人の言うことを素直に聞くのが
「良い子」とされる。

自分を抑えて社会に合わせることが「善」とされる。

確かに、日本ではそれが常識です。

 

しかし、これがあまりにも強すぎやしないか?と
僕はずっと違和感を持っていました。

 

言葉はきついですが、ある種の「信仰」
なってるように見えるんですよね。

 

何故そこまで社会を信じられるの?と思ってしまいます。

 

社会が与えてくれる役割、学生なら学生らしくふるまうことが、
イコール「生きること」になっている。

役割を果たせなければ、居場所がないのです。

 

例えば、僕のような不登校の子供は、他に行く所もなく、
昼間は家にいるしかありませんでした。
(外をフラフラしていると変な目で見られます)

 

役割を果たせる大多数の人はそれでいいと思いますが、
その役割も人間が作ったもので、完璧ではありません。

そこに合わない人も、少なからずいるわけです。

 

なのに、その役割を疑うことなく絶対視し、
「義務を果たすべき」「果たせない人間がおかしい」とされます。

 

僕は、これは違うと思います。

「役割」なんて、先に生まれた誰かが恣意的に作ったものです。

 

確かに今、社会はそれで回ってるのかもしれませんが、
これから先もそれが回り続けるとは限らない。

 

現に、高度成長期にはここまで問題にならなかった
ブラック企業の問題が、ここ数年で一気に遡上に載り、
「働き方改革」が叫ばれるようになりました。

 

本当は、過労自殺で訴訟、なんて事態がなくても
もっと早く改善されるべきだったのだと思います。

 

でも、日本ではそれができなかった。

 

それは、「集団の論理」が最優先であり、
「役割」を果たすことだけが善、とされる信仰によるものです。

 

「集団」は自分に役割=存在意義を与えてくれる存在ですから、
それを疑う声は上げることができなかったのです。

「同調圧力」というやつです。

 

僕らは、与えられる「役割」以前に、一人の人間です。

 

役割なんて、後づけだ。
役割を果たせなくても、人間には生きる価値がある。

いや、生きていないと駄目だ。

と、はっきりと教えてくれる大人は、いなかったように感じます。

 

人間は、人間を必要とする。

「役割」は、社会が与えるものです。

 

人間は社会を作る生き物であり、その中で生きるには
確かに役割を果たす必要があります。

 

しかしそれ以前に、1個の生物として
「生きたい」という意思があります。

 

そして何より、「人間は人間を必要としている」のです。

ちょっと抽象的な言い方ですが。

 

人は、人とコミュニケーションをしないと生きていけません。

引きこもって誰とも話さずにいると、どんどん脳の機能が
落ちていきます。
(引きこもりを経験された方は分かると思います)

 

外国の話ですが、生まれてすぐに部屋に監禁され、
食事だけ与えられて、誰とも話さずに育てられた子供が
いたそうです。

かわいそうな話ですが、もちろん正常な発達はできず、
言葉を発することもなく、4才くらいで自然に死んでしまったそうです。

 

「他者」の存在がないと、人間は生きることすらやめてしまうのです。

 

そして、たとえ働けなくても、
自分では動くこともできない障害者であっても、
ただそこに存在するだけで、誰かの「他者」になりうるのです。

 

これが、僕の言う

「人間として生まれてきている限り、他者に必要とされる価値がある」

ということです。

働いてお金を稼ぐとか、何かの才能があるとか、
そういう「機能」によって、人間の価値は発生するのではない。

存在そのものに価値がある。

 

仮に今、誰にも必要とされていなくても、
人間である限りは、本質的に誰かに必要とされるべくして
生まれてきた存在である。

僕はそう考えています。

 

今はまだ社会は変わらない。だから起業する。

そう考えると、「弱肉強食」や「ナマポ死ね」、
「働かざる者食うべからず」(本来の意味と違って使われていますが)
という言葉を、ネタでなく本気で使っているのは、
とても表面的な主張だと思えてきます。

 

日本では、「欧米から20年遅れの新自由主義」と言われた
小泉改革以降、この「弱肉強食」論が、特に若い人の間で
はびこっています。

 

でも、これは長い歴史の軸で考えると、
一時的な揺り戻しのように感じます。

 

封建制度、独裁政治を経て、今では多くの国が
「基本的人権」を掲げるようになっています。

 

権力や経済力で抑えつける独裁政治から、
少数派の意見を尊重し、
誰もが生きやすい社会を目指す方向に
確実に変わっていっていると思います。

 

残念ながら日本は、20年遅れの揺り戻しが
ようやく終わりつつある段階で、
いまだ独裁政治の真っ只中です。

 

国民の意識も、「同調圧力」「空気」が支配したままで、
なかなか変わりません。

それでも、変化の兆しは見えている。
50年後、100年後は、もう少し生きやすい
社会になっていると思います。

 

でも、大事なのは今。

まさに今、この社会に馴染めず苦しんでいる人は大勢います。

あと50年も待てません。

 

だから、僕は起業しました。

自分に合わない「与えられた役割」を無理にこなすより、
自分で役割を作る。

既存の役割が自分に合わない以上、
そうするしかないからです。

 

やってみたら、意外と簡単でした。

いや、もちろん自分で稼ぐ仕組みを作る苦労はありますが、
合わない社会に、無理に自分を合わせる苦労に比べれば、
遥かに楽でした。

 

与えられる役割は、誰かが作ったもので、絶対じゃないです。

たまたま一つの役割に合わなかったとしても、
何をしても生きていくことはできます。

 

社会が与える役割に期待できないなら、
自分で役割を作ればいいのです。

 

あとがき

今、会社や学校が自分に合わずに苦しんでいる方に、

「あなたはこの世界に必要な存在です」

ということをお伝えしたくて、この記事を書きました。

 

学校や勤務先などで馴染めなかったりすると
どうしても社会そのものから阻害された気になってしまいます。

それこそ、生きてること自体を否定されたような絶望感を
抱いてしまうことでしょう。

 

しかし、そうではない、と言いたいのです。

むしろ、それ以外の選択肢を排除してしまっている
今の社会の方が間違っていると。

 

僕の気持ちが伝われば幸いです。

お読み頂きありがとうございました。

 

 

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管理人:ゆうしん

元中小企業の営業マン。
鬱で退職後、不動産投資と転売で稼いだり、また鬱になって休んだり。

中学から不登校だったり、高校中退したり、高認取って大学行ったり。

そんな経験をふまえて情報発信してます。

生きづらさとか。
社会に対する問題意識とか。
なんか楽しいこととか。

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