不登校

人生において大事なのになぜか学校で教えてくれないこと

目安時間 8分

どうも、ゆうしんです。

 

僕は自分が元不登校でもあり「学校には行きたくなければ行かなくても良い」と考えています。

 

でもそれは「行かない自由を認めるべき」という意見であって、行けるなら行ったほうがいいという立場です。

 

せっかく手厚い教育制度を国が用意してくれているんですから、できるなら利用したほうがいい。

この社会は全員が学校に行くことを前提に設計されているので、それに従ったほうが間違いなく人生はラクですからね。

 

ただ、今の教育制度には欠陥がたくさんあるのも事実です。

社会に出て働いたり、人付き合いや、恋愛や結婚をする中で、

「なんでこれ大事なのに学校で教えないの??」

と思うことがたくさんありました。

 

今回は、そういった学校教育に足りないこと、そしてどうすれば良くなるかという点について書いてみたいと思います。

 

自己主張の大事さ

これは良く言われますよね。
諸外国と比べて、日本の学生は授業での発言が圧倒的に少ない。

 

これは日本の教育が基本的に「減点法」だからですね。
間違ったら叱られるし、変に目立っても叱られる。
大人しくしとけと。

当然、「目立つのが嫌で発言しない」消極的な子供になります。

でもそれは特に問題にはされず、テストの点数さえ良ければとりあえず進学できる。

 

なのに社会に出たら一転して積極的な人間が勝つようにできている。

明らかに教育の欠陥です。

 

日本と違い、欧米では「発言しないと0点」と見なされます。

発言しない人=いないのと同じで、評価に値しない。
だから、間違っていようがアホみたいな質問だろうが、何でもいいから発言する。

 

異論もあるかもですが、僕は日本もこの姿勢を取り入れるべきだと思いますね。

自己主張できないと苦労することが多いですから、それこそ幼少期から自己主張の訓練をさせるべきです。

 

それも、内容の良し悪しとは別にアウトプット自体を評価する教育制度に変える必要があります。

 

間違いは知識によっていくらでも修正できますが、消極的な姿勢は一度身につくとなかなか変えられないですからね。

 

世の中にはいろんな人がいること。そして一人残らず「尊重すべき個人」であること。

次に「多様性」についての教育ですね。

日本の学校は原則「全員一律」で、集団が均一であるほど良しとされます。

まるで「個を捨てることが人間として優秀である」と言わんばかり。

 

金子みすゞの詩の中の「みんなちがって、みんないい」って一節は広く知られていますが、この国の実態は真逆ですよね。

「地毛証明書」なんて悪習が2019年現在にまだ存在してる現実。
まったく信じられません。

白人の生徒もそれ出すんでしょうか?

もともと黒髪の白人もいますし、茶色も赤毛もいます。
そういう生徒が脱色して金髪に染めてたらどうしますか?

全員の生まれた時の髪色を保護者に聞いておいて、それと違ってないかどうか確認するんですか?

 

って具合に、いろんな人種の生徒がいれば、「地毛証明書」がいかにバカげたものかわかるんですけどね。
髪の色なんて何だっていいじゃん。

 

性的指向についてもちゃんと教えないとダメですよね。

政治家のおっさんとかおばさんの発言を見てたら「この国大丈夫か…」って思いますよ。
完っっっ全に同性愛者を「趣味」「性癖」の範疇であると認識してますからね。

同性愛者に対する認識が、「とんねるずのみなさんのおかげです」に出てきた保毛尾田保毛男の時代からアップデートされてないんですよ。

ひどいもんです。

 

今の中高生はちゃんと教えてもらってるのかな。
だとしたら、あと10年も経てば改善していくと思うけど。

 

とにかく、世の中には自分の想像の範疇を超えたいろんな人がいて、それぞれ尊重すべき個人だってことをちゃんと教えるべき。

 

「人間とはこうだ、こうあるべきだ」と先回りして設定してしまうと、それは「人間とは何か」を教師が全て知っているということになる。
傲慢きわまりない。

教師も一人の人間であり、数十年で経験した「自分一人ぶんの人生」しか知らない。まだまだ未知の世界はある。

そういう謙虚な態度を教師が身をもって教えるべきです。

 

損得を超えた「立派に生きる」ことの大事さ

これが今回一番言いたかった、大事なことな気がします。

 

今の日本は「それが何になるの病」にかかってるように見えるんですよね。

利益につながらないことは意味のないことっていう。

 

お金が儲かるとか出世ができるとかいう「利益」とは別に、一生かけて追い求める「道」とか「正しさ」みたいな価値があると思うんですよ。

それは、この50年とか100年で発達した「経済」とか「貨幣」っていう表面的なものではなく、何万年という単位で培ってきた、人類に共通する根本的な価値です。

 

自分を犠牲にしてでも他者を助ける行為とか。
金になることよりも、自分が夢中になれることを見つける方がずっと大事。とか。

 

これは、昨今の「生産性」についての議論にも通じるところがあります。

生産性。
お金を稼ぐとか、数字で実績を残すとか、そういう目に見える結果、測定できる価値って、所詮はこの百年かそこら程度で人間が作り出したシステムの上に表示される「得点」でしかない。

人間の頭の中にしかない「虚構」。

 

そんな薄っぺらなものではなく、数千年、数万年の人間の歴史を振り返って導かれる「人はどう生きるべきか」という哲学。

さらに普遍的な生物としての基本に立ち返って考えるという視点。

 

そういう壮大な視野で捉えた教育が、何もなされていない。

 

目の前の勉強、部活、受験。
就職。仕事。
育児。

そういう「半径30m以内」の題材しかこの世にはないかのように、その外には関心を持つ必要がないかのように、短期的、近視眼的な人間ばかりを作り出す教育だなと感じます。

 

もちろん日々の生活も大事。
でも、それだけでは「人はどう生きるべきか」という、人間としての「芯」が作られない。

日常の些事から離れて、大枠で人生を、世界を捉える視点がないと、普遍的な哲学なんてものは作りようがないし、作ろうとすら思わないでしょう。

 

関心があるのは「損得」のみ。

そこを超えて「立派に生きる」「大きな人間になる」ことを教えられる教師がどれだけいるか。

 

そんな教育に変えていければ、ギスギスした世の中がもう少し生きやすくなる気がするんですよね。

 

 

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管理人:ゆうしん

元中小企業の営業マン。
鬱で退職後、不動産投資と転売で稼いだり、また鬱になって休んだり。

中学から不登校だったり、高校中退したり、高認取って大学行ったり。

そんな経験をふまえて情報発信してます。

生きづらさとか。
社会に対する問題意識とか。
なんか楽しいこととか。

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